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花盗人は泥棒です

2007116

宇佐美 保

 長い間、我が家の生垣は柘植(つげ)の木が担っていてくれました。

しかし、最近、めっきりその木も、(私同様に)気が衰えて、枯れ枝が多くなってきました。

それに、(私の方は、坊主頭にしましたが)道路に落ちた柘植の小さな葉っぱは、掃くのが大変です。

 

 ですから、この辺で、柘植の木を引退させて、庭の雑木の陰で日が当たらずに息絶え絶えになり小さくなっているツツジの復活を図るためにもと、選手交代を、植木屋さんに頼みました。

 

 今度は、ツツジの葉っぱ等が道路に落ちないように、道路から1メートル近く離して植えて貰うことにしました。

そして、その間隙に、草花でも植えようと思い、柘植に影に隠れていた金網のフェンスも取り除いて貰おうとも思いました。

(金網のフェンス撤去くらいは経費節約の為、自分で!)

 

 そしてら、植木屋さんが心配しました。

“そんなことしたら、その草花みんな盗られてしまうよ!

なにしろ、そんな被害に沢山のお客さんたちが遭っているのだから!”

 

 成る程!

以前、一抱えほどの鉢に咲き誇っているパンジーを植え、(チャチな)門扉の前に飾ったら、数日のうちに、鉢ごと盗られてしまったのです。

 

 それに、ご近所の方が道端に数メートルにわたって植えた草花が、たびたび盗られるので、「盗らないで下さい」と立て札を草花の中に立ててあったのですが、結局は全部盗られてしまいました。

 

 そうです、すっかり記憶力の衰えた私も、思い出しました!

以前は、柘植の生垣の下を、芝桜がピンクの花で飾ってくれたのですが、今は、その芝桜はすっかり無くなってしまいました。

 

 それに、数週間前に柘植の木を抜いてもらった時には、3株ほどの玉簾(たますだれ)の白く可愛い花が、喜びと元気を与えてくれていましたのに、今では、花を落とした1株が残っているだけで、あとの2株は消えてなくなっています。

 

 確かに、私は「花盗人は泥棒(盗人)にあらず」との言葉の中で長い間生きてきましたが、こんな言葉を受け入れる事が出来ません。

何故このような言葉が息づいているのかが不思議でなりません。

そこで、「日本国語大辞典(小学館)」を開きますと次のように書かれていました。

 

はな・ぬすびと【花盗人】

一 []花の枝を盗み折る人。

《季・春》*公任集(1044頃)「われが名は花ぬす人とたてばたてただ一枝は折りてかへらむ」

*虎明本狂言花盗人(室町末・近世初)「花ぬす人には、酒をもると云程に、さけ出さうと云」

*俳諧・古今俳諧明題集(1763)夏「見たやうな花倫児(ハナヌスヒト)やころもがへ(涼帒)」

二 狂言各流。男が桜の枝を折ろうとして捕えられ、木に縛りつけられるが、「この春は花の下にて縄つきぬ烏帽子桜と人やいふらん」という歌をよんで許される。

 

 この程度では、とても「花盗人は泥棒にあらず」の根拠となりえません。

特に、短命な桜の花は、枝など折ることなく、木に咲いた状態にして、少しでもその命を永らえてあげるべきです。

 

 ですから、桜の花に限らず、私は、切り花を花瓶に飾る事は余り好きではありません。

(足の踏み場もない私の部屋には、飾りようもないのです。)

草花も地面に生えていて欲しいとはいえ、根こそぎ盗られて盗人の庭で命をつないでも、その草花は幸せでしょうか?

その草花は盗人と心を交わす事が出来るのでしょうか?

 

そうそう、

辞書には、「花盗人」は、「花の枝を盗み折る人」と記述されていますから、
「草花を根こそぎ盗る人」は「花盗人」でもなく、正真正銘の「泥棒」なのです。

 

何故、植木屋さんが嘆かれるように「草花を根こそぎ盗る泥棒」が増殖してしまったのでしょうか!?

 

テレビでは、「消費期限」をごまかしていたメーカーの社長達の謝罪姿が、入れ替わり立ち代り映し出されています。

 

そして、スーパーなどへ行くとほとんどの客達は陳列棚の奥の方にまで手を突っ込んで、1日でも消費期日の遅い商品を選んでいます。

(選択後、陳列棚を綺麗に整頓する事もなく!)

 

 更に驚く事がありました。

先日、生協に行きましたら、「1袋詰め放題、¥298円」と言う、ミカンの安売りをやっていました。

(通常価格の半額ほどでした)

 

 そこで、私も買い物カートを横に停め、ミカンを袋に詰め始めましたが、私より先に詰めている年配の女性(私の買い物カートの横に大学生くらいの娘さんが立っていました)が、箱に入ったミカンを、それも、箱の下の方にまで手を突っ込んで取り出して一つ一つつぶさに吟味して袋に入れていました。

 

 そうすれば確かに、ご自分だけは立派なミカンを袋一杯安く購入できるでしょうが、皆がそんなことしたらミカンは傷だらけになってしまいます、

それに、質の悪いミカンばかりが残ってしまいます。

ですから、“そんな事はしないほうが良いのではありませんか!?”と私は注意しました。ところが、“傷のあるミカンを避けているのです!”と反論してきました。

確かに、表面の皮が5ミリほど裂けたミカンも何個か目に付きましたが、それらを除けても箱の底まで手を突っ込まずとも直ぐにミカンは袋一杯になります。

 

 ですから、私は、

ミカンの「品」より、自らの「品」を選択し、

さっさと袋を一杯にしました。

 

 でも、不思議なのは、母親がそんな醜い行為をしていれば、一緒の娘さんが止めてよさそうに思ったのですが、どうも母娘とも同じ思いだったようです。

 

 なにしろ、家に帰って、買い物をひろげたら、一つの製品にガムがべったりと生々しく擦り付けられていました。

 

 何故日本はこんな社会になってしまったのでしょうか?!

それとも以前から、日本はこんな程度だったのでしょうか?!

 

 最近、『幼児化する日本社会:榊原英資著(発行:東洋経済新報社)』を斜め読みしましたので、この本を引用させて頂きながら、この「何故」を考えてみたいと存じます。

 
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